貝原益軒の「養生訓」 第四回
貝原益軒「養生訓」(4)
九州大学名誉教授 岡田武彦先生の「兀坐」最終回
「静坐」を超克した「兀坐」
「静坐」はいわば「坐禅」をこえて出て来た、儒教の一つの重要な修業法です。
岡田先生が唱える「兀坐」は、そういう「静坐」を超克して出て来たものなのです。
「兀坐」というのは、形の上では坐禅やまた静坐とも変わりありません。
ただ、坐禅や静坐は静かにすわることで、心を無心に、無念無想の境地に身を置こうとしますが、兀坐の場合はそうゆうことに一切無関心です。
ただ、身体を静かに、じっとすわっているだけでよいのです。
なぜ、それでよいのかというと、世界観が彼らと多少違うからです。「兀坐」のもつ世界観は、実は儒教のもつ世界観、人生観とひとつといっていいでしょう。
その点では、仏教的な世界観、人生観とは違います。それなら兀坐は静坐と同じではないかといわれるかも知れませんが、大きく違うのはそれをなす意味です。
兀坐という言葉は、よく静坐と同じように使われて来ました。また反対に、ただ兀兀として坐すということから、何か無意味な坐り方だと非難されるような言葉として使われる場合もありました。
しかし、岡田先生が兀坐を説くのは、身体というものの深遠な意味を自覚されたからだといいます。坐禅といい、あるいは静坐といい、彼らが説く学問は、実は心の学といわれるものです。坐禅の禅は心学ともいわれますし、また静坐を説く儒学者も心学ということを唱えます。
いずれも、いわゆる心というものを重視しています。人間の心の中には、その本来のものが備わっているという前提の上に立っての修行が坐禅であり、また静坐です。
もちろん、その本来のものというのが仏教と儒教で異なることは、超越主義と理想主義の人間観を考えていただければ容易にお分かりでしょう。
ところが、岡田武彦先生が説かれる「兀坐」というのは、これは身の学に立つものであって、心の学ではないのです。ここにこそ、坐禅や静坐を説く主旨と兀坐を説く主旨との本質的な相異があるのです。一言でいうならば、仏教的な心の学が、やがて儒教的な心の学となり、それが岡田先生にいたって、一転して身の学になったのです。
以上、岡田先生の心学から身学へのお話をまとめてお伝えしました。
岡田武彦先生
九州大学名誉教授、文学博士。
明治41年 兵庫県姫路市に生れ。昭和9年九州帝国大学 法文学部支那哲学科卒業。
昭和24年九州大学助教授、33年教授。47年定年退官。
平成6年、福岡市にて「東アジアの伝統文化」、続いて9年京都市にて「国際陽明学会」と題して国際会議を開催。アメリカ、コロンビア大学の日本人初の客員教授として明代の思想を講義するなど陽明学の国際的権威で中国哲学全般に関するわが国の第一人者。
主な著書に「東洋の道」「孫子新解」「座禅と静座」「王陽明紀行」「貝原益軒」
など著書多数。福岡市在住、93歳
貝原益軒記念資料館
福岡県粕屋郡久山町大字久原1822番地「レイクサイドホテル久山」
本館1F ,館内資料館
開館時間/10時〜19時(年中無休)、電話092-976-1800 (代表)
松尾允之
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